なぜ人はストーリーを求めるのかについて考えてみた
なぜ人はストーリーを求めるのか
有給休暇なので本を読んでいました。
以下の2冊が特に印象的だったのでその話をします。
まず「ストーリーが世界を滅ぼす」について。本書の主張は「ストーリーによって人間はたやすく操作されてしまう」というもので、この主張自体は苦もなく同意できます。この主張は興味を惹かなかったのですが、前段の以下の疑問に興味を惹かれました。
なぜ 人 は こんなにも 物語 が 好き なのか。 なかでも 不思議 なのは、 なぜ 私 たち は 虚構 が こんなにも 気 に なる かで ある。
ジョナサン・ゴットシャル (2022-07-29). ストーリーが世界を滅ぼす―物語があなたの脳を操作する (Kindle の位置No.582-583). 東洋経済新報社. Kindle 版.
私は小説を読むのが好きだし、物語についてあれこれ議論をすることが好きです。そして、この本によると私だけではなく人間は一般的にストーリーに非常に多くの時間を費しています。
最近 の ニールセン の 調査 に よれ ば、 平均的 な アメリカ 人 は メディア 消費 に 1 日 12 時間 近く 費やし て いる。 テレビ 視聴 だけで 4・5 時間 だ
ジョナサン・ゴットシャル (2022-07-29). ストーリーが世界を滅ぼす―物語があなたの脳を操作する (Kindle の位置No.570-572). 東洋経済新報社. Kindle 版.
テレビ視聴やメディア消費がストーリーを読むこととイコールと言えるのか?という疑問を持ったかもしれません。
上記のメディア消費というのは小説だけでなく、ニュースやドキュメンタリーやホームドラマ、SNS上の投稿やビデオゲームを含みます。そして、本書で言うストーリーは創作か現実かに関係なく、「人々が仲間をなびかせようとするコミュニケーションの一形態」を意味し、人が他社の感情を呼び起こすために作られた何かはすべてストーリーとなります。この意味ではニュースやドキュメンタリーなどもストーリーとなります。
では我々はなぜこんなに人間はストーリーが好きなのでしょう。
我々はストーリーに日常的に浸っています。現代においては目の前にある現実のことを考えるよりもより多くの時間をストーリーに対して費やしているかもしれません。
なぜ我々がストーリーを必要としているか、を考えるために、ストーリーを読まない人生を想像してみます。まず、退屈だと思うに違いありません。ストーリーがない世界は刺激がなくて耐えられないように思えます。
ではなぜ退屈だと感じるのか、そして人間はなぜ退屈が苦痛なのかを「暇と退屈の倫理学」を使って考えていきましょう。
本書ではハイデガーの「形而上学の根本諸概念」を元に退屈とは何かを考えています。
ハイデガーは退屈を3つに分けます。
- 何かによって退屈させられること
- 何かに際して退屈すること
- なんとなく退屈すること
1は明確に退屈をもたらす対象があるケースです。例えばどこかに行きたい時に電車を待っているケースは時間によって退屈させられていると考えます。
2は特定の何かによって退屈させられているのではなく、何かに立ち会いつつ、なんとなく退屈を感じているというケースです。パーティーに出かけて楽しくあそんだけど、振り返ってみると退屈だったと感じたという例があがっています。楽しくあそんだのに一方で退屈を感じるというのは一見理屈にあわないように見えますが、振り返ってみると人生で良くある場面のように見えます。何かに強く集中しているでもなく、なんとなく楽しかったけど退屈さもまたあった。
2のケースではパーティーに招待されたこと、そこでの立ち振舞い、すべてが退屈に対処するための気晴らしだったと解釈することができます。状況がそもそも退屈を解消するための気晴らしなので、特定の退屈なものなどありません。
3は気晴らしが許されない退屈で、退屈に耳を傾けることを強制されているケースです。完全に自由であるときに、我々は退屈であるという感覚を持ちます。この退屈から逃れるには何かを決断する必要がある、というのがハイデガーの意見です。
ハイデッガー は、 退屈 する 人間 には 自由 が ある の だ から、 決断 によって その 自由 を 発揮 せよ と 言っ て いる ので ある。 退屈 は お前 に 自由 を 教え て いる。 だから、 決断 せよ ─ ─ これ が ハイデッガー の 退屈 論 の 結論 で ある。
1から3にむかって退屈はより深くなっていきます。
3の状態も興味深いですが、我々が退屈なのでストーリーを消費したいと考えるのは1、2のケースです。3はストーリーのような気晴らしが役に立たないような場面でしょう。
また、本書では3は決断すると1に遷移するという指摘がされています。そして、2のケースが人間の人生でもっとも多くあらわれる退屈の形態であり重要であると述べています。
2のケースにおいて退屈がなぜ発生するのかについて以下のような説明をしています。
人間 は 高度 な 環 世界 間 移動 能力 を もち、 複数 の 環 世界 を 移動 する。 だから 一つ の 環 世界 に とどまる こと、 そこ に ひたっ て いる こと が でき ない。 これ が 人間 の 退屈 の 根拠 で あっ た。
環世界 というのは生物が知覚から感じとれる世界のありかたで、例えばダニは視覚・聴覚が存在しない一方で嗅覚、触覚、温度感覚を持っているため、嗅覚、触覚、温度感覚から感じとれるもので構成されたダニならではの環世界を持っています。
人間はこの環世界を複数持ち、環世界間を移動するとしています。例えば地理学者が鉱石を見た時の世界の理解と、鉱物学者が鉱石を見た時の世界というのは違っています。このように知覚としては同じでも、その解釈を変えることができる、それを環世界の移動と捉えることができる、という意味です。
では、 ここ から 退屈 について 考える と どう なる か? 人間 は 環 世界 を 生き て いる が、 その 環 世界 を かなり 自由 に 移動 する。 この こと は、 人間 が 相当 に 不安定 な 環 世界 しか 持ち 得 ない こと を 意味 する。 人間 は 容易 に 一つ の 環 世界 から 離れ、 別 の 環 世界 へと 移動 し て しまう。 一つ の 環 世界 に ひたっ て いる こと が でき ない。 おそらく ここ に、 人間 が 極度 に 退屈 に 悩まさ れる 存在 で ある こと の 理由 が ある。 人間 は 一つ の 環 世界 に とどまっ て い られ ない の だ。
世界 を 容易 に 移動 できる こと は 人間的「 自由」 の 本質 なの かも しれ ない。 しかし、 この「 自由」 は 環 世界 の 不安定 性 と 表裏一体 で ある。 何 か 特定 の 対象 に〈 とり さらわ れ〉 続ける こと が できる なら 人 は 退屈 し ない。 しかし、 人間 は 容易 に 他 の 対象 に〈 とり さらわ れ〉 て しまう の だ。
一つの環世界しか持たず、その世界で対象に<とりさらわれる>ならば人間は退屈しないのだが、そうではなく複数の環世界を移動するから人間は退屈するのだと言っています。
文明以前の世界では人間が危険を回避する能力が必要でした。危険を回避するためには周囲の環境を正確に把握する必要があります。そうであるならば、退屈というのはこの切り替えを促すための仕組みなのかもしれません。
また、ストーリーがなぜ人間にとって魅力的なのかというと、他の環世界へ移動できないほどに<とりさらわれる>コンテンツ、であるからと言うことができそうです。
言い替えると、ストーリーは意識をそこに集中させ、退屈させないという力があるので人間はストーリーを好むのだという話になります。