自分の人生に集中したい
自分の人生に集中する、ということ
ニュースでも twitter でも何でも良いのですが、自分の知りたい事、やりたい事、やらなければならない事とは全然関係ないけど、魅力的に見えるものが世の中にはたくさんあって、そういったものに時間を奪われるのはたまらなく嫌だな。と思っています。魅力的に見えるのは勝手に見えればいいんだけど、自分の人生の貴重な時間を奪うなと。(まあ会社が一番豪快に時間を奪っていっているんですが)
とはいえ何か大きなことを達成するには他人を応援して連帯しないといけないように見えるんですよね。特にネットだときらびやかな業績の人達が連帯して大きなことをやろうとしていて、なんだか輝いてみえます。すごく良いことで、まさに個人の時代になっているなと思うのです。
ただ、反面強い個性をもたない大多数の人達は存在感を示せない時代なのだな。とも思います。隣の誰かよりもネットで有名な誰かのことを良く知っている、とか。そういう時代であると。
なんだか短いのに取りとめの無い事を書いていますが、つまり自分のやりたいことを貫くのって何だかむずかしーなーと思った次第。世界一の誰かになれなくても日本一の誰かになれなくても自分らしくやっていければいいんですけど、頭のどこかで勝てないと無駄だと思ってしまうんですよね。だから自分は一流になれねーんだっていう。
正月一人ハッカソンを考える
職場がハッカソンをやらない空気なので、個人で何かやろうかなと。
まあ人工知能系はこれといって作りたいものもないので、やっぱり Unity でネットワークゲームかな、という気はしています。途中までは作ってるしなあ。
思考の技法の続き
13. トラファルガー広場の殺人
これは大分概念として難しいですね。
トラファルガー広場で殺人があった場合に、殺人者にもそれをニュースで見た一般人にも同様にトラファルガー広場で殺人があったという信念を持つことになります。
しかし、この信念は何らか共通の物理的性質を持っているわけではなく、個々の人間の頭で別個に処理されたものであり、それらは特に共通点があるわけではありません。
意味というものを考えるときに人間的なバイアスに捉われるべきではない。意味とは何かということについて人間は不可知であると言いたいようです。
14. クレバーランドに住む兄
信念を挿入できる技術があるというSFみたいな世界があったとして、とある人間に「クレバーランドに兄が住んでいる」という信念を植えつけたとします。
しかし、この人に「その兄について教えて」と言っても当然知らないので話すことはできません。一瞬にして矛盾が発生して信念とはいえない思い込みになってしまいます。
ここから、信念というものは様々な文脈に応じて無制限の拡張性を持たなければいけない、という前提があるのがわかります。
15. パパはお医者さんなの
子供がパパはお医者さんなの、と言った場合、医者というものが何者であるのかの理解が十分にされているとは限らない。この状態は「準・信念を抱いている」というものであると説明されています。信念の必要条件として対象に対する十分な理解が挙げられるようです。
16. 外見的イメージと科学的イメージ
外見的イメージとは見るがままの世界のことであり、視覚のみならず、主観で感じ取れるものが全て含まれます。歌や詩、自由意思のような触れることのできないものも外見的イメージの内となります。
科学的イメージとは分子や電子のような主観では感じ取れないけど科学的事実としてあるものです。